特撮 ウルトラQ 制作 [ウルトラシリーズ]

元々の企画は高価なオプチカル映像合成機を生かす作品の制作ということだった。そのアプリは、当時まだ世界に二台しかない米・オックスベリー社製のもので、この作品の企画が誕生する以前に、フジテレビと円谷プロによるアメリカとの合作を前提とした作品の為に円谷英二が逆援助していた(先約方が「世界のツブラヤ」たっての頼みという事で折れたという逸話が伝えられている)ものの、その企画がお蔵入りしてしまい、キャンセルしようとしたがすでに船便で日本へ向かっている最中だった。円谷プロが自腹で購入するにはあまりに高額で不可能であったが、当時TBSのディレクターであった円谷一の口添えでTBSが購入を肩代わりする事になり、それを使った特撮ドラマを円谷プロで製作するという契約が結ばれ、本作品の制作が行われた。もちろんTBS側にも成算は一応あり、本作は「世界のツブラヤ」の知名度を生かして、海外販売されることが前提とされた。

本作品はこの機械を活用するために劇場映画用と同じ35mmフィルムで撮影された。テレビ映画は通常16mmフィルムを使用するが、当時映画界からの要請で(映画との差別化のために)、テレビ局には35mmテレシネ用プロジェクターを導入出来なかった。しかし、円谷英二は「16mmのクォリティでは特撮は出来ない」と言い、その代わりに放映用フィルムとして16mmに縮小するという手法が採られた。

当初は『UNBALANCE』(アンバランス)というタイトルで制作が決定し、放送スケジュールが未定のまま1964年9月から撮影が始まった。国産初の本格的SF怪奇ドラマシリーズとして撮影が進められた『UNBALANCE』だったが、対象視聴者層をより明確にしたいというTBSサイドの意向により怪獣路線へと変更を迫られることとなり、同時に番組タイトルも『ウルトラQ』へと変わった。このタイトルは(東京オリンピックの際に体操競技の難易度を示す言葉から一般的になった)当時の流行語「ウルトラC」からヒントを得、”Question”の「Q」を付加したものとされている。

TBSの岡崎潔によると1964年に円谷プロと契約、本作は1965年1月頃に放映する予定だったそうである。

これが1965年5月頃になっても売れなかった。原因は本作につけられた高い提供費である。本作の制作費が高かったためにTBSは提供費を高く設定したのであるが、これがスポンサーから敬遠された。

この頃になるとTBSの管理部で多額の制作費がかけられた本作の放映の遅れが問題になり始めた。円谷プロからは何度も市川利明がやってきて、本作の売行きを岡崎にたずねては溜息をついた。円谷英二が本作に制作費をかけすぎたため赤字が発生し、円谷プロは経営危機に陥っていたのである。

1965年8月頃になっても売れず、とうとう海外販売の方が先に決まった。

番組セールスの遅れから焦るTBSの足下を見た武田薬品は本作を安く買い叩き[6]、1965年の暮れにようやく放送が決定した。この頃には本作の全28本がほとんど完成しており、武田薬品は全話を見てから決断したのである。

こうして1966年1月2日から放送が開始された。
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